nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

ジーナ3

                  四
 
 それから三度目の水曜日が来た。明日の約束をしようと、昼休みの終わりに店の外へ出た。携帯電話を手に取って、深呼吸をした。五月の空は晴れわたっている。青空の下、向こうの家の庭に、新緑の木が二本ある。目の前の道路を真っすぐ突き進めば、5分ぐらいでその木に辿り着くだろうか。自動車が通るまで待って、電話を掛けようと思った。
手前の歩行者沿いに咲くレンゲは、紫に揺れている。その上を、ミツバチが数匹、「の」を描いて飛んでいた。一匹が、勢いよく花弁に止まる。茎もたわむばかりになり、その反動から、ミツバチは脚に力を入れて踏みとどまったかに思えた。
 しばらく待っても、自動車は通らない。
「Hi. This is Gina. Sorry I can't come to the phone right now. Please leave a message after the beep.」 
 女声の機械音が鳴った。それから、空気が漏れたような間の抜けた音がした。フィルムの破れ目から声が聞こえてくるような感じがした。
「Hi.」
 ジーナだ。
「ごめんごめん、寝ていた」
「明日は?」
「ん! ……スゥ」
 と息を吸った。
「どう?」
「んー…… 行けないの」
 と怒りを抑えるトーンである。
「だって先週も行けなかったでしょ」
「いやっ……」
「何?」
「休みの日は、同伴をしなくちゃいけないの」
 私は話をさえぎるように、そうなんだと繰り返し口にして、じゃあねと電話を切った。
バックヤードに戻るまで、胸騒ぎが止まなかった。ジーナが酒飲みのおじさんの腕をつかんで、片手である方を指差して、楽しそうに笑っている姿が、頭に浮かんでくる。もっと、不快な場面が何度も頭をよぎった。『お金目当てで日本に来ているだけなんだろうか。パブのお客にしたいから、一緒にスパゲッティーを食べたのかしら。でも、カラオケが終わって、さよならをする時、ジーナは本当に愛して欲しくて、しんどそうに手を振っているように見えた。でも同伴をしているなんて…… 日本に連れて来られたフィリピーナは、ブローカーに一度は犯されているというじゃないか』と私は考えた。
 うつらうつら刺身を切っていたら、するめいかの刺身を三日分の五十パック造ってしまった。休憩から戻ってきた主任に見つかり怒られた。

 その夜、マリアから電話がきた。
「今からお店に来られる」
 声の背後から、おじさんの大きな歌声が聞こえた。カラオケの音が受話器で化けて、妙にスローで気持ち悪い。自分自身が酔っているかに思えてきた。マリアの話声は、いつも楽しく投げやりで、もの悲しげなところがない。相手をしんみりとさせない。
「もう十時だよ」
「いいじゃん。来なよ」
「明日早いから、もう寝ようかと思って……」
「子供じゃん。ジーナ、酔っているよ。あなたのこといい人だって言っているよ」
「今日はちょっと」
「わかったよ。今度、会いに来なよ」
 電話を切ってから温かい気持ちになった。今度、ジーナのお店に、一度は顔を出してみたくなった。

                  五

 府中の並木通りにある三菱UFJ銀行前に、ジーナと夜八時に待ち合わせた。銀行と横道を挟んで並んでいる豚骨ラーメン屋からは、酸味のきいた味噌の匂いがする。軒の煙突からは、湯気が立ち上がっている。電灯の暗い明かりが、モンシロチョウの鱗粉のような蒸気の一粒ずつを繊細に照らしている。 
横道は自動車一台がやっと通れるほどの広さだ。急な車を警戒してか、皆、壁伝いに歩いている。黒服を着た若くていかつい二人の男が、腰をくの字にして、縦に並んで通り過ぎていった。太った中年の男は、はちきれんばかりの緑のポロシャツを着ている。それと手をつないでいるのは、目元にパウダータイプの銀のアイシャドウを入れた二十前後の女だ。金の盛髪に、黒い漆皮のハイヒールパンプスを履いていた。二人とも縦に前屈みになりながら歩いていった。
 ジーナは約束の時間に来なかった。電話もしたけど、かからない。私は横の脇道をぼんやり歩き始めた。細い一本道を歩めば、きっと、パブ瓊(ケイ)があるだろう。初め、道の両側に、掲示板がしばらく続いた。指名手配の顔写真がいくつか貼り付けてあった。そこを抜けると、左方にハングル文字で書かれた居酒屋がある。小学生ぐらいの女子と毛糸の腹巻をしたおじさんが店頭で焼き鳥を売っていた。おじさんの目は黄色く濁っていて、顎が小刻みに震えている。震える手で串を持って返した肉の一切れがピンポン玉ぐらいの大きさであった。私が傍を通ると、韓国語で話す声が聞こえた。
 シャッターを下ろしている店がいくつかあった。黄ばんだ新聞紙がシャッターの隅にへばりついていた。金網式の大きいゴミ箱から溢れて転げ落ちた空き缶には、日頃、見慣れない文字がデザインされてあった。ビールケースを椅子代わりにして座っている男は、酒屋の窓の明かりを頼りにして英語の本を読んでいた。甘いタレの匂いが鼻先をかすめる。振り返ると、炉端からすさまじい煙が上がっていた。靄が消えうせ、おじさんは楽しそうに笑い、後ろへ反り返った。
 四階建の建物に店の名前がネオンサインで表示されている。一階の枠内に、紫から黄色く浮かんだ瓊という名前があった。
瓊の扉を開ける。十代であろう丸顔の女性がカウンターに並んだグラスをタオルで拭いていた。私のことに気付いたが、はにかむだけで何も話そうとしなかった。瓊というから中国人パブであろう。奥からもう一人、女が出てきた。私はジーナのことを聞いた。まだ来ていないからソファーに座ってくださいと中国訛りのある言葉で促された。
 亜麻色の壁にこぢんまりとしたシャンデリアが、いくつか掛けられている。黒いソファーが壁に沿って並べられている。透明なダイニングテーブルの上に灰皿と紫に透き通ったライターがある。部屋の端に、季節外れの小さな門松があり、松の葉にエイブラハム・リンカーンジョージ・ワシントンベンジャミン・フランクリンの肖像が描かれたドル紙幣が何枚も差し込まれていた。フランクリンの禿頭に目を奪われた。私は反射的に左手を頭頂部に当てた。日を追って髪が薄くなってきたからである。
 神社の鈴緒を振る音がして、ドアが開いた。ジーナが入ってきた。私に気付くと、不思議そうに立ち止まった。そして、しばらく口を開けていた。
「えっ、九時だったのよ。じゃなかったっけ……」
「八時だと思ったけど……」
 ジーナは口を閉じてから真顔になった。それから、首を傾げて笑みをこぼした。

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