一
府中国際通りのチャイニーズパブ「ミカ」の扉をゆっくり開けた。同時に右前のトイレからジーナが出てきた。その場に立ったまま、大きい目をさらに大きくして、私のことをじっと見てくる。何よと言いたそうに口元が動いた。私は前に来たときより、彼女の身体が痩せて、肌の色が薄茶になったなと思った。数か月前にフィリピンのミンダナオ島から帰ったときには、黒く日に焼けて太っていた。私が元気と話しかけると、ジーナは両手を上から後ろに回して、髪を束ねようとした。なかなか決まらないらしく、その間、私とジーナは真面目に向き合っていた。ジーナが顔をほころばせた。それから、素早く後ろを向いて、お願いと楽しそうに頭を振ってみせた。レモンの匂いが鼻先をかすめる。髪は襟のホックに少し絡んでいた。痛いのはやめてねとジーナが言った。
髪をほどいた私はジーナに勧められるまま座った。この店でもう一人働いている同じくフィリピン人ホステスのマリアが来て、もう四ヶ月近くきていないじゃない、ジーナを待たせるんじゃないよと私を睨んだ。
二
府中市の是政にあるスーパーの鮮魚部に、私が勤め始めたのは二年前だった。隣の肉屋には、パートに来ているマリアがいたのだ。いらっしゃいませの声が無邪気で良く通るので、店長が朝礼で褒めたことがあった。半年後にマリアがジーナを連れてきた。その日、休憩室の机にうつ伏せになって寝ようとしている私の頭上で、片言の日本語が響いた。顔を上げると、マリアが手招きをして、扉から入ろうとしない彼女を呼んでいる。すると扉を開けて、顔を下に向けて入ってきた。慣れない水着を見られて恥ずかしがる女の子のようだと思った。
「新しくここの魚屋で働くジーナ」
とマリアが紹介した。ジーナがよろしくお願いしますと、私の顔から目をそらさずにぎこちなく挨拶をした。遠くにある椰子の実に追いつこうとして、浜辺を皆で駆けるような無邪気さが、爛爛とした目に投影されていた。両肩には重い荷を担いでいるような忍びやかなものがあり、それとは対照的に両足は、些細なおかしみにも飛び跳ねるような軽さがあった。
私は立ちあがって、伊藤元治ですと言った。時計をちらと見ると、休憩時間が過ぎていた。主任に紹介するからと扉口に急いで行き、手招きをした。ジーナは立ったままである。マリアがジーナの背中を励ますように叩いた。
主任からジーナに仕事を教えるように私は言われた。値段を付けることや、丸魚や切身等をトレーに詰めることをしてもらったが、どうもうまくいかない。サンマを左向きにトレーにのせてくださいと言っても、ジーナは私の顔を楽しそうに眺めている。値段を付けてもらおうと、機械の操作を教えようにも、言葉が半分ぐらい通じない。刺身を切っていた主任が、その場を離れて、刺身を切らせようとジーナを手招きした。口を薄く開けて立っているジーナは私の顔を真面目に見た。私はジーナの背中を叩いた。
鮪の柵を包丁でスライスしていく彼女の目は、熊を見つけた狐のように恐ろしそうにしていた。切っ先が小刻みに震えている。柳刃包丁の刃先が緑色の衛生俎板に接すると、蛍光灯の光が反射し、ジーナの丸々と大きく開けた目の一点が星のように輝いた。大根ツマを盛っている時、赤紫の海藻を指でつまんで刺身トレーの右端に丁寧にのせている時、ワサビを入れるのを忘れて、あわてて蓋を取る時、彼女の目に映し出されているものは一体何であろうか? 刺身をしながら時々怯えた目をするのは、大切にしているものがあるからだろうか?
ある時、両掌に〆さばの切れ端をのせて、どうするか聞いてきたことがあった。私はゴミ箱を指さして、捨てるように言うと、しばらくそれを惜しそうに眺めている。ジーナの育ったミンダナオ島では、ナスやバナナやマンゴー、川で釣った魚や市場で仕入れた豚肉に至るまで、何でも冬場に備えて塩漬けするということを後日教えてくれた。胆嚢に石があって時々うめくように痛いのは、塩気のあるものを、多く食べてきたからだろうかと不安そうにしていたことがある。
それにしても彼女は刺身を覚えるのが早かった。普通なら二週間はかかるところを三日もたたないうちに出来るようになった。イワシやアジを三枚に卸して渡せば、すぐに立派な刺身を造ってくれる。
「覚えるのが早いね。誰よりも早いよ」
私は冷蔵庫の中を確認した。彼女は俎板を見つめて、黙っている。彼女が目を落とすと、一重になった瞼に暗い怒りにも似た影が宿るのだ。
「これ、持って帰りたい」
ジーナは、衛生俎板にのせられた〆さばの切れ端を指差した。
さばの尾の端が俎板の隅に、いくつも重なっていた。裏返しになった尾は、水中動物の舌のように、先端にかけて細まり、中線には、取り忘れた骨が、白い極小さな画鋲のように並んでいた。尾の表面には、銀白色に輝く両側に、黄金色の筆跡のようなものがある。そのいくつかの縁が反り返り、酢から上げて間もないことを示している。
「いいよ」
と私は親指と人差指で丸をつくった。〆さばの切れ端を集め、白く小さなトレーに入れた。
「いいよ、いいよ」とジーナは手を振ってから、ありがとうと軽くお辞儀をした。
その頃、マリアとはメールで時々やり取りをしていた。ジーナがどうしているか聞いてくると、良く働いてくれて助かりますと返答した。すると、翌日、ジーナは何度も私を見て微笑んだ。今まで私が教えた、つまの置き方、大葉の位置、切り口の立て方を再度、楽しそうに聞いてきては、そうねとでも言いたげに目をそらすのである。
ジーナがお店で働き始めた日に、主任から香水の匂いがきついからやめてくれと注意されていた。それが、今日の彼女からは、また別のココナッツオイルの匂いがするのである。中学生の頃に、市民プールで泳がずに日焼けをしている兄が、手で全身に行き渡らせていたオイルと同じ香りがする。
その刹那、脳裏に浮かんだ情景をいまだに忘れない。人影の無い砂浜が広がっている。汀は平行線を保っており、それから少し離れたところに、等間隔で椰子の木が並んでいる。南国の太陽が真上に輝き、砂浜は強い光を反射して白く輝いていた。覆いかぶさった緑の硬い葉並の間から、胡桃色の大きな椰子の実が顔を出している。それは、ピーナッツの殻のように皺が入り、果実の純潔を守ろうとしてきた痕跡のようであった。
「いい匂いの香水だね」
「えっ、コウスイ? つけて無いよ。前につけちゃ駄目だって注意されてからつけたことない」
「マリアさんに返してもらった白衣は、つんと鼻を突いたよ」
と私は自分の鼻をつまんでみせた。
「マリアはね。私はつけてないよ」
コバルトブルーの海の浅瀬に、さざ波が静かである。急に吹き出した風が、木の幹をゾワゾワと揺すった。吹き矢の矢じりにつかわれるほどに鋭い葉並から椰子の実が現れ、わけもなく落ちた。浅瀬に丸い影が生じると同時に、ドボンと音を立てた。水が垂直に跳ね上がり、同心円は広がるにつれて薄くなった。椰子の実は横向きに浮かんでいた。そよ風が吹くと、水面から顔を出している実の側面が敏感に震え、海面に波紋が広がる。椰子の実は、ゆっくりと瑠璃色の大海原に向かっている。それは、出帆する船のように行き着く先が決められているようでもあった。
ジーナと売場の拭き掃除をしていた。彼女は突如、雑巾を私が拭いている場所のすぐ近くまですべらせてきて、終わった? と楽しそうに聞いてきた。それから、中華くらげを指差して、これ私はつくれるわと得意そうに首をかしげた。
先日、彼女が帰る際に、寿司部のパートのおばさんが、伊藤さんに愛の告白があるわと冗談を言ったことを受けてのことだろうか。その時、彼女は何よと言わんばかりに肩を怒らせて帰ったはずだが……
そんなこんなで彼女をデートに誘った。