nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

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婚活! のしかかる相手の人生の息吹と迷い


7月24日(水)の夜7時30分に池袋東口交番前でSさんとお会いすることになった。15分前に着いたら、相手と目があったので、そのまま、近くの服部珈琲舎に招待した。一瞬笑顔になった後に、何度もうなずきながらついてきた。私の雰囲気に不満を持っているというより、結婚しようとすることへの葛藤が垣間見えるようだ。
茶店に入り、誘導されるままに、言われた席に不満の顔を浮かべることもなく、ただ座ろうとする。意思が欠けているように思えても、彼女の真面目に私の顔を見つめてくる目がそれを裏切っている。席についてから、ドリンクだけでなく、せっかく来てくれたのだからケーキはどうですか? と勧めても、食べようとしない。こちらが何かを話さないとすぐ沈黙が訪れる雰囲気であった。難しいかなと最初は考えたけれど、気づいたら、午後9時を回っていたのだから、結構話していた。ほとんど、彼女の食品遍歴についてだ。
婚活で出会う一類型に属するのだろう。今の独身の生活が満更でもなく続けていたいのだけれど、仲の良い友達が結婚したのを契機に、年齢からくる焦りも手伝って婚活を始める女性がいる。今の生活の幸福と結婚後の幸福のイメージを秤にかけて選ぼうとしている。しかし、彼女には、本質的に結婚への願望が薄い。突然、関係を切られるのは、この手の女性で、私は2度苦労した。2度目はこのブログの中で2度記事をあげたことがある。もし良かったら一読願いたい。
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彼女の手放したくないものは、学生の時から栄養士を目指し、現在まで一途に築いてきた食品関係のキャリアであろう。
聖徳大学という女子大を出て、病院食を作る会社に就職したが、時間に追われる日々で、食品の商品開発をしたいと、サンドウィッチの商品開発会社に入り、数年経って、現在は冷凍食品の会社で、商品開発の仕事をしているということである。出張がしょっちゅうあり、日本、世界の食品工場に行き、新規商品の試食や提案を行い、最終的に商品化を行うか決める時が一番緊張するということだ。休日は、カルチャーセンターで食品関係の授業を受けたりしたけれど、遊びに近かったので、調理師の専門学校に行って、調理について勉強し直したと語っている。話題の料理があると、片道2時間かけて食べに行くこともあるという。ツヴァイのプロフィール:趣味関心の欄には、美味しい店探し、旅行(グルメ)、料理と書かれていた。食品について話しているときだけ明るく元気になる。そして、一緒にいることが楽しいという気持ちを満面の笑みで示してくるのだ。しかし、この類の女性は、私に微に入り細を穿つような、結婚後の生活をイメージさせるような質問をしてこない。たとえば、(ペットが欲しい女性)が動物は好きですか? どんなところに住みたいですか? 長期休暇はとれますか? 一人暮らしじゃないんですか?(困った顔)
その後、好きな本は? 好きな映画は? 葛飾区に住んでいるから下町のこと等を話しかけたが、あまり関心がないようだった。
JRの改札口の前でお別れする際、目が合った。寂しそうに私ではない何かを見つめているようだった。
婚活は、相手の人生の大きな一面に触れることができる機会でもあるけれど、それが毒になることも、癒しになることも、場合によっては傷を負うこともある。ここのところ、下痢が止まらなくなったり、いぼ痔になったり、慢性的な疲労にさいなまれているのは、婚活のスケジュールが密になっていることからではないかと考えている。

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『金閣寺』を巡る旅 1-苔寺

 
金閣寺』の舞台を巡る旅に出たが、寄り道をした。三島由紀夫が25歳頃に訪れたことのある、京都の苔寺西芳寺)を最初に行くことにした。
『親切な機械』という作品の重要な一場面につかわれていた。猪口という学生が、苔寺鉄子に結婚を申し込み、断わられたことで、深く考えてから彼女を殺害する話である。

「嵐山には例によって漫然と人間がいるだけのことである。名所というものはどこでもそうであるが、ここは別して今日だけ茶店が休みの日の劇場のような様子をしている。
 そこに23時間いてから西芳寺へ行った。苔庭は冬枯れのままだった。訪れる人はまだなかった。猪口はそれを目当てで誘ったのである。
 初夏になると苔寺の庭は、その凸凹が青い馬の背を連ねたようにみえ、苔の感触といい、光沢といいサラブレッドの名馬の毛並みを思わせる。泰西の人なら、日本ではローンの美しさが、いずれも仮構のものであることに愕くであろう。遠目には美しく刈られたローンとしか見えないものが、近くで見ると歩くこともできない水田なのである。ところが苔寺を訪れる異邦人は、殆ど夢想的な芝生(ローン)の美しさ、これもひとしく仮構の美しさを見出すであろう。なぜならこの庭は妖精のための芝生(ローン)だからである。これは人間の規模を千分の一に縮小したデリケートなローンの微細画である。彼らは波斯密画の繊巧をきわめた庭草の描法を見るであろう。
 しかし庭はまだ赤土色のの枯色を湛えていた。廻遊式の庭園は、荒涼とした径の上に2人を導いた。鉄子が礫(こいし)を戯れに池へ投げ入れる。すると鯉がものうい動きで黒ずんだ鰭をはためかして消えた。
鉄子さん、一寸』
 すこし遅れぎみになった猪口が常に似ぬきんきんした声でこう呼びとめた。ふりむくと、たださえ圧縮された漢字の顔が、赤らんだ肉がぎっしり詰まったようにこわばって、目ばかり光っているさまが異様である。鉄子は戦慄した。足を早めた。
『なあに?……いいから早く出ましょうよ、こんなつまらないところ』
 言いながらますます足を早めた。猪口は黙って追って来る。廻遊式庭園は径が迂回し曲折して歩き尽すことが容易でない。彼女は夢の中で追われているような恐怖を味わった。径の紆余曲折が、無我夢中で歩いていると記憶や夢の構造とまざり合うので、時間も距離もあいまいな延長の上に消えてゆくように思われる。彼女は枯山水の岩間に漏れている水のような早春の日ざしや、竹藪に落ちている斑ら雪めいた日ざしを縫って、ほとんど駆けんばかりにしてもとの玄関の前へ出た。床几に掛けると胸くるしい微笑で鉄子を見下ろした。鉄子は彼の目も憚らずに、ジャケツの襟元深く、大仰にハンケチをさし入れて汗を拭っていたのである。
『ああ、疲れた。鬼ごっこをしてしまいましたな。この庭園で鬼ごっこをしたのは僕らがはじめてでしょうな』」

私が訪れたのは9月下旬であった。
申し込んだ往復ハガキに日時が書かれていて、和尚さんの話とお経を聞いてからでなければ、庭を見ることができない。隣に座っていた西洋人のカップルが、お経の後で喜んで話していた。異国情緒に触れた喜びであろうか? 言葉を連ねていく中で独特のリズムに招かれて、無我の境地に誘われるようである。ここに来る新幹線の中で一人旅の解放感から性欲が募り、西芳寺の簡素なトイレで自慰に耽ろうかと勃然と思っていたのが嘘のように、射精前に賢者モードになれた。
苔は庭にビッシリと敷かれて、確かに微細を極めたローンの美しさを放っていた。庭園は意外と小さく、10分もしないで一巡りできるだろう。
かがみこんで苔を懸命に写している女性がいる。研究でもされているんですか? と聞くと、いいえと黙って首を振った。案内をする和尚さんに質問している人がいたが、一言二言の説明で終える。清掃の仕事の人に毎日されているんですか?と聞くと黙ってうなずくだけだ。
この場の空気がそうさせているようだ。作中で「この庭園で鬼ごっこをしたのは、僕らが初めてでしょうな」とあるけれど、その通りだと思う。きっと三島由紀夫も同じようにこの雰囲気を感じとったのだろう。

小説『金閣寺』を巡る旅 プロローグ


三島由紀夫の『金閣寺』に出会ったのは、大学1年生である。梅ヶ丘商店街の地下にある書店であった。今から20年前、スマホもなかった当時は、梅ヶ丘駅周辺にいくつも本屋があり、多くの人が立ち読みしていた。コンビニのバイトをしていたけれど、人間関係がうまくいかず、火をつけてやりたいという怒りが湧いていた。知ってるつもりで特集していた金閣寺に火をつけた男を思い出した。大学生活を送りながら、ストレスで怒りが始終湧いてくる自分の感情を持て余していた私は、その答えが書かれているのかもしれないと救いを求めるように、『金閣寺』を手にとったのである。
記憶する限り、自分でお金を出して初めて買った本である。結果、この本に出会うために生きてきたのではないかと考えてしまうほど衝撃を受けた。
一昨年の秋に、私の人生で大きく影響された2つのものを、この目で見てこようと思った。1つは、甲子園であり、もう1つは、金閣寺である。甲子園球児になり、阪神タイガースの選手として活躍する夢、『金閣寺』のような小説を書いて、一世を風靡したい夢、この2つの夢が36歳までの私を支えてくれた。しかし、1度もその場に行ったことがないのだ。2泊3日の京都旅行のプランを立てた。
苔寺渡月橋近くの小督の局の墓→亀山公園→妙心寺南禅寺→柊家別館(1泊)→建勲神社大谷大学飛田新地(1息吐いて)→甲子園(阪神巨人戦)→大阪から東京新宿駅までの夜行バス(2泊)→新宿歌舞伎町でクライマックス(アゲアゲで)
という計画を立てた。京都観光する人に興味を持ってもらうように、また、してみたいと思えるように、人情を交えて書いていきたい。

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高校野球にはディオニュソスの神がいる!

 
西東京高校野球、夏予選ベスト8を決める試合を観てきた。1年に1度は高校野球を観て元気を貰うようにしている。母校が早くも負けてしまったために、世田谷学園創価の私学同士の試合を観ることに決めた。 
12時30分試合開始とあるから、25分ぐらいに球場横の坂をゆっくり上がっていると、打者を応援する歌が流れている。金属バットに白球の当たる音が響いてくる。試合が始まっている。プロ野球のように時間に厳密ではないのだろう。
 プロ野球を見過ぎたせいか、高校球児が随分小さく見える。両校共に守備のミスが少なく、ピッチャーが安定した投球を続けていく。
 創価高校のエースナンバーをつけた投手が、2回表に1点を失い、なお1アウト満塁のピンチになる。ここでショートゴロを打たせ、ダブルプレーをとって切り抜けたことが大きかった。
 世田谷学園の投手に、打者1巡目において、まったく手がでなかった創価打線が、2巡目において、甘く入ったストレートを積極的に打ちにいくことで、3回に一挙3点をもぎとった。
 この打撃の修正ができる基本の形が身についているのかというのが、強豪校で背番号をとれるかどうかの分かれ目なのだろう。
 打てなかった理由を考えて次の打席に生かせるかということにおいては、創価の方が上だったと思える。どちらが勝ってもおかしくない試合に見えても、同じような高校生の体力で勝負している場合、より考えてプレーできる総力が問題になってくる。
 創価高校は3回以降、背番号10番の右の速球投手がゼロで抑えた。世田谷学園の投手も3回以降、ストレートが甘くならないようにコントロールし、縦スラを中心に投球することで、同じくゼロで抑えた。
 隣の中年女性はスコアーを一所懸命につけている。高校の関係者ですか? と失礼ながら聞いてみると、笑って首を振って、好きなんですと応えた。酒の酔いが入って顔を赤くした中年男性が興奮して、打ってみろと叫ぶ声が聞こえてくる。
 世田谷学園ブラバンの演奏にのせて、声変わりをして太い声になったばかりのスタンドの選手達が歌う応援歌は真夏の日光の下に素晴らしく似合っている。共学の創価高校は私が高校球児だった20年前には、チアガールが健康な柔肌を日光にさらして舞っていたような気がするのだが、この度はいなかった。赤いポロシャツを着たブラバンを力強く指揮している女性が目立っているだけだった。
 夏の日光、白球を懸命に追う球児達の姿、ブラバンの演奏、応援歌、観客の様々な姿、球場の自由なまでの広さが視覚、聴覚、触覚を刺激して、酔いに似た心地にさせる。
 進路に関わる高校三年間を野球ばかりして大丈夫なのか? という疑問は、社会人生活で苦労している私としては脳裏に浮かんでくる。進学、進路に命をかけている人達からすれば無智蒙昧にも見えるだろう。しかし、それを讃美している観客の姿は、力を蓄えている強さが垣間見えるのだ。生の充実した怒りに似た表情をしている。きっと、高校野球は素晴らしいものだ。日本のディオニュソス的な力が現れている。高校球児が懸命にプレーする姿の向こうに、ディオニュソスの神が現れることを期待して……

「アニーホール」男女関係の究明を試みた映画


内容
この映画はニューヨークとロサンゼルスに舞台を置く。
ウディ・アレンは死に取りつかれたコメディアン、アルビー・シンガーを演じる。明るい性格のアニー・ホールダイアン・キートン)との関係を保とうとしている。2人の数年にわたる関係が語られ、それぞれの過去にあった様々な出来事を途中に挟みながら進行する(アニーはアルビーが子供のころの家族を「見る」ことができ、アルビーも同様にアニーの過去の恋人とのやりとりを観察している)。彼はブルックリンで育ち、彼の父はバンパーカー(bumper cars)の営業をしていて、彼の家はコニーアイランドのローラーコースターの下にあることが、アルビーの回想場面からわかる。

数年後、口論と仲直りが何度も続き、自分たちは相性がわるいし、別れるだろうと2人は悟る。アニーはハリウッドレコード会社の経営者(ポール・サイモン)のもとに引っ越してしまう。アルビーは結局、未だに彼女を愛していることに気付き、ニューヨークの自分の所に戻ってくるよう説得するが、うまくいかない。あきらめたアルビーは自分たちの関係について芝居を書くためにニューヨークに戻る。この芝居のエンディングは、彼が彼女を取り戻すのに成功するというものだった。のちに彼らは友人として良好な関係で再会し、そのとき2人にはすでに別の恋人がいた。愛と人の関係はしばしば痛みをともない、複雑なものにもかかわらず、誰もが必要としているのだと思いを巡らせながら、アルビーは映画を終わらせる。 wikipediaより

感想
『アニーホール』は、死に取りつかれたコメディアンのアルビー・シンガーが、アニー・ホールとの関係を保とうとする難しさを表した映画である。神経症のアルビーは、思ったことを難しく言い回す。冒頭からカメラに向かって、インテリでノイローゼを患った姿はかくあるものかと言わんばかりにアルビーを熱弁を振るう。この会話がうるさく感じられ、早々に脱落しそうになった。名作ということだから、最後まで観よう。1時間40分だから、最後にはっとさせるオチがあるのではと期待して観ていく。
 アニーホールとの関係が難しいとお互い合意の上で別れても、寂寥感に苛まれ、アルビーは飛行機に乗ってまで会いに行く。なぜ、それほどまでに彼女が大切なのかが、いまいち伝わってこない。しかし、会話における難しい言葉の絶え間ない羅列によって、両者の間隙にも、理屈があるのだと考えたくなってくるのだ。
 男女の関係で、何故、二人は別れたのか(一緒にいるのか)? と問いかけられ、答えられる人は少ないのではないか。なんとなく、お互いピンときてという曖昧な言葉でしか表すことしかできないだろう。アルビーはアニーホールをいつまでも必要としているが、伝える言葉が見つからない。この葛藤にさらされない人などいないのではないか?
 アルビーの最後の言葉
精神科医に男が、『弟は自分がメスドリだと思い込んでいます』医師は、『入院させなさい』男は、『でも、卵は欲しいのでね』男と女の関係も、この話と似ている。おおよそ火生定期で、不合理な事ばかり。それでも付き合うのは、卵がほしいからでしょう」
 と煙に巻いて物語りを終える。

歴史上最高のダンディはリックだ!


概要
第二次世界大戦アメリカが参戦した翌年の1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開された、物語の設定時点の1941年12月時点では親ドイツのヴィシー政権支配下にあったフランス領モロッコカサブランカを舞台にしたラブロマンス映画。監督はマイケル・カーティス。配給はワーナー・ブラザース

ストーリー

1941年12月、親ドイツのヴィシー政権の管理下に置かれたフランス領モロッコの都市カサブランカ。ドイツの侵略によるヨーロッパの戦災を逃れた人の多くは、中立国のポルトガル経由でアメリカへの亡命を図ろうとしていた。

アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)は、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザ・ラント(イングリッド・バーグマン)と、彼が経営する酒場「カフェ・アメリカン」で偶然の再会を果たす。パリの思い出である『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が切なく流れる。

イルザが店を去って再び過去の痛みに苦しむリック。

イルザの夫で、現在はドイツに併合されたチェコスロバキア人のドイツ抵抗運動の指導者ヴィクトル・ラズロ(ポール・ヘンリード)は現地のオルグ接触、脱出のチャンスをうかがっていた。フランス植民地警察のルノー署長(クロード・レインズ)は計算高い男だが、流れに逆らうように異郷で生きるリックにシンパシーを感じ、かつてスペインのレジスタンスに協力したリックに、ラズロには関わるなと釘を指す。現地司令官であるドイツ空軍のシュトラッサー少佐は、ラズロを市内に閉じ込める。

イルザは、夫を助けられるのは闇屋のウーガーテ(ピーター・ローレ)からヴィシー政権の発行した通行証を譲り受けたリックしかいないと、必死に協力をお願いする。そして通行証を渡そうとしないリックに銃口さえ向ける。しかし引き金を引くことが出来ないイルザ。2人はお互いの愛情を確かめ合う。

リックは、ラズロとイルザが通行証を欲しがっている事実をルノー署長に打ち明け、現場でラズロを逮捕するようにと耳打ちする。手柄を立てるために、約束の閉店後の店にやってきたルノーだが、リックの本心は、2人を亡命させるためにルノーを空港まで車に同乗させて監視の目を欺く点にあった。シュトラッサーを射ち殺してでも彼女を守ろうとするリックは、過去の痛みに耐えていた彼ではなかった。

愛を失っても大義を守ろうとしたリックを前にして、実はレジスタンスの支援者であったルノーは、自由フランスの支配地域であるフランス領赤道アフリカブラザヴィルへ逃げるように勧めて、見逃すことにする。

2人と連合国の未来に希望を持たせながら、彼らは宵闇の中へ消えていく。 wikipediaより

感想
 パリにおいてファシズムと闘う男二人と女一人の三角関係を描いた作品であろう。ドイツが悪役で敵国として描いており、フランスの三色旗(自由・平等・博愛)の精神を讃美し高揚させる内容になっている。
 戦意高揚のプロパガンダ映画という点からすれば、とても良く出来ている。世界情勢の不安が過度に高まったゆえに、現状打開の策として、このような名作が生まれたともいえるだろう。
 勇気とユーモアはセットであるというが、リックはところどころでユーモアを発揮して、落ち着きを保っているように見える。日本映画の主人公にほとんどいないタイプではないだろうか?

女「昨夜はどこにいたの?」
リック「そんな昔のこと、覚えていないね」
女「今夜逢える?」
リック「そんな先のこと分からない」

ウガーテ「2人のドイツの特使は気の毒だったね?」
リック「2人はラッキーだったさ。昨日は単なる2人のドイツの役人だったのが、今日は名誉の死を遂げたのだから」
ウガーテ「君は本当に皮肉屋だね。そう呼んでも許してくれるかい?」
リック「許すよ」

シュトラッサー「愛するパリにドイツ軍がいることなど想像もできない人々の1人かね」
リック「特に私が愛するパリにはね」

ルノー「いったい、なんだってカサブランカなんかに来たんだね?」
リック「健康のためさ。カサブランカの水のために来たんだ」
ルノー「水?何の水だ?砂漠の真ん中だぞ」
リック「情報が間違ってたんだ」

 リック役のハンフリー・ボガートが恋人イルザ・ラント役のイングリッド・バーグマンへの恋心や葛藤の中で、「俺は何者でもないが、世界が悪くなるのを見過ごすわけにはいかない」という大義のために、恋を断ち切る姿はしびれるほど格好いい。 

カサブランカ・最後の場面/ Casablanca Final

 この映画は筋立て(起承転結)がしっかりしているし、テーマが細部までしっかりと浸透している。「時の過ぎ行くままに」「Knock On Wood」「ラ・マルセイエーズ」「ラインの守り」の歌が場面に効果的につかわれているため感情移入しやすい。

カサブランカ (1942) As Time Goes By  フランク・シナトラ

Knock On Wood - Dooley Wilson (Casablanca - 1942)

ラインの守り vs ラ・マルセイエーズ 1942

私的な幸福(恋愛)と大義の葛藤を乗り越えていくリックの男気溢れる姿、作中に4度もリックが口にする「君の瞳に乾杯」という言葉にうなずけるだけの美しい容姿をしたイルザがあって、『カサブランカ』を不朽の名作にしている。
 婚活でコンタクトを申し込んで承諾してくれた女性と次々会っていると、このような恋愛を一生に一度はしてみたいと憧れてしまうのである。戦争はいけないけれど、死と隣り合わせの中に生の充実が現れることは揺るがし難い事実であろう。

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カテゴリ
阪神タイガース・プロ野球・スポーツ