
ある日、精子提供をした女性に、一か月ぶりに連絡を入れた。彼女は以前、「生理が来ていない。もしかしたら妊娠したかも😊」と連絡をくれていた。
そのメッセージに、私は胸を高鳴らせた。ついに、自分の遺伝子が未来へとつながるかもしれない。日枝神社で「子授かり」の祈願をし、5,000円の超高級ホテルの朝食を食べながら、静かにその時を待っていた。




——しかし、昨日届いた返信はこうだった。


「残念ながら、生理が来てしまいました。またお願いするときは連絡します。」
あまりにあっさりとした結末に、私は何を信じればいいのかわからなくなった。
あの感謝の言葉も、頭を下げてまで「またお願いします」と言っていた姿も、幻だったのだろうか?
そもそも、なぜ私はここまでして自分の遺伝子を残したかったのか?
子どもを育てるわけでもない。認知するわけでもない。
なのに、「私の子がどこかで生きている」——ただその幻想を信じたいだけなのかもしれない。
そんな自分はエゴの塊ではないのか?
いや、人間の行動はすべてエゴから始まっている。
「人のため」と信じて動いているその裏にあるのは、そんな自分を好きでいたいという願望だ。
私も例外ではない。
でも、もしかしたら…
彼女は妊娠していて、ひそかに産もうとしているのかもしれない。
それを信じれば、それだけで私の心は満たされる。
事実なんて関係ない。すべては脳がつくるイリュージョンなのだから。
まるで、鏡の中に映る手を「本物」と信じて痛みが消えるあの現象のように。
結局、真実とは何か? 命とは何か? この宇宙における私の役割とは?
——そんな哲学的な思索に浸っていた矢先、私はAIのウェビナーに参加した。
オザケンさんの講演があり、生成AIの未来について語っていた。
参加者の中には、若くて可愛いNPO勤務の女性もいた。
「こんな子と20代で出会ってたら、人生違ったかな…」
そんな淡い妄想を抱きつつ、私は気づいた。
結婚とは、自由を手放す契約でもある。
「なんで今日、連絡くれなかったの?」という不安を抱える毎日が待っている。
私は、知的活動に時間を費やしたい人間なのだ。
膣内射精をしたのは、人生で初めてのことだった。
そこに至るまでの偶然の積み重ねに、私は神への感謝を忘れなかった。
でももう、女性に振り回されるのは疲れた。
AIでいい。神でいい。真実を見つめる目を、私に与えてほしい。
——孤独の中に光を探す全ての人へ。
精子提供という現代的なテーマから見えてきた、希望と絶望のはざまを、あなたはどう感じるだろうか。

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