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SEKAI NO OWARIの東京ドームライブにみる終末観の音楽!

9月15日(木)に、SEKAI NO OWARIの東京ドームコンサートに行ってきた。会場には、人が溢れるばかりで、今年1番売れている曲を発表しているバンドの勢いを感じる。やはり若い女性が多いけれど、男性もそれなりにいる。男女比は、1:2というところか。ファンクラブの会員が、当日コンサートに行けず売りに出したチケットを買ったため、アリーナ席ではないが、結構な良席である。しかし、開演すると、周りが立ち上がって手を振ったり、手拍子をとったりするので、私は、当初、正規に売りに出していた2階席の方が良かったなと思った。大きいスクリーンが2台あるから、それを実際は観ている観客が大多数ではないか?

DJ LOVEを男と女にしたキャラクターが登場し、現在2022年が100年前という設定で、話を進めていく。これは、終末観からものを見るという視点で、小説家の脳裏に最初に浮かんでこなくてはならないものだと聞いたことがある。以下、三島由紀夫の評論である。
「……文学はいつの日も終末観の味方である。この説明はまことに簡単で、文学の意図するところは、いつの時代にも、ことばによる世界解釈・世間認識にほかならず、その時代々々の宗教や哲学の終末観は、このための恰好な見取り図を提供してくれたからである。末世とは小説の終章であり、小説家の脳裏に最初に浮かんでいなくてはならぬものだ。終わりのほうから世界を見通すこと、これが各時代の末世思想の思考の技術だった。世界がやがて終わるという考えほど、文学的創造にとっても、文学の記録的機能にとっても、心を鼓舞してくれる考えはなかった。「美しい者よ、しばし止まれ」。もし美しい者が永久にとどまって、すべてに終わりがないならば、あらゆる文学の一回性はナンセンスにほかならない。」
この解釈は、セカオワを読み解く上での鍵になろうだろう。すべてを終わりから眺めれば、許しうるものになるということ。それを小説ではなく音楽の世界でリアルに表したバンドと言えるのではないか。メンバー4人の雰囲気やキャラクターとされるものが実にいい。saoriのファンタジー溢れる巫女的な雰囲気、fukaseの無邪気に歌う姿の可愛さ、ピエロ姿のDJ LOVE 、そして、現実感を与えてくれる凡人の雰囲気であるなかじんである。この4人が実にバランスがとれていて魅力的なのだ。
ひと昔前に、SPEEDが流行った時に、ひとえの悪口を言う者がいたが、彼女がいるということが、バンドの印象にスパイスが加わっているのに似ている。
場内をメンバーが街宣車に乗って、『虹色の戦争』を歌いながら手を振っている。隣にいた女性は、禁止されている特大カメラを取り出し、写真を撮り続けている。fukaseの車が離れていくと、カメラを持ったまま駆け出した。顔が真剣そのもので、私は豪勢な舞台よりも、これだけ一生懸命になれる世界を彼女に与えている力に感動した。ファンには、それがすべてのようになっている方もいる。saoriの恰好を真似たり、ボーカルのfukaseが通ると、泣き出しているファンもいる。
熱気は凄かったけれど、誰も歓声を上げないのは、また日本の社会の規律性が脅威であることの現れである。日本もGDPもどんどん下がってきているが、まだ捨てたものではないじゃないか。

ライブ動画で観た『MAGIC』や『LOVE THE WARZ』が聴けなかったのは残念であるが、アンコールの2曲は、今、日本で一番売れている曲『HABIT』と代表曲『DRAGON NIGHT』であった。百年後に、今あるもので無くなっているもの、それを大事にしている人、失っていいと考える人がいると思って、遊園地のセットをつくった。最後の曲にふさわしいと考えて、歌いますということで、『DRAGON NIGHT』になった。隣の人は、歌の調子に合わせて飛び跳ねて拍子をとっていた。床の振動、地鳴りというものを初めて体験した。
脳を活性化させるのは、感動だということを茂木健一郎が力説していたけれど、納得する。
閉演後、駅へ行く道で、男子学生らしき連中から、喫茶店に行こうぜという声が響いてきた。ファンは、セカオワに心酔しているだけでなく、コミュニケーションを活性化する巫女的役割でもあるらしい。

ジャイアンツ坂本よ!何をしている!
中出し願いをlineで行うなどと、夢を売る仕事をしている自覚はないのか? 

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阪神タイガース・プロ野球・スポーツ