ポンペイ展に入ろうとしたが、当日券は完売であった。周辺のダフ屋に電話しても、どこも無かった。係員に文句を言う人達もいた。ウクライナの問題もあって、核戦争でも起これば、現代のポンペイになりかねないということで、感心を抱く人が多かったということだろう。
平日の木曜日だと高をくくっていたが、学校は春休みで、桜満開とあって、まるで祝日かと思えるような人出である。
「二人が大学病院の裏手の、だらだら坂の石畳を下りて来るとき、雲が破れて、水のように淡々とした日ざしが風景の上に落ちた。
かづは車を待たせてあったのだが、野口が歩こうと言ったので、車を帰したのである。
車をわざわざ帰させてまで歩こうという野口の口調には、何だか倫理的な力があったので、かづは自分の贅沢を間接に避難されているような印象を持った。あとあとかづはこんな印象を訂正する機会に何度もぶつかったが、野口の風貌やものの言い方が、常日頃からあんまり高潔なので、彼の些細なわがままや気まぐれまでが、倫理的に見えてしまうのであった。
道を渡って池ノ端公園へ行こうとする。その道の車の往来は織るようだが、かづは巧く渡ってしまう自信があるのに、野口はなかなか慎重で渡ろうとしない。かづが走り出そうとすると、「まだまだ」と言って引き止めるのである。かづはチャンスを虚しく逸する。目の前に渡れた筈の空間が、みるみる、冬日に前窓を反射させながら迫ってくる自動車の流れで埋められる。とうとうかづはしびれを切らして、
「今ですよ。さあ今ですよ」
と言いざま、野口の手をしっかりと握って駆け出した。
むこうへ渡ってからも、かづはまだ野口の手を握っていた。それはごく乾いて、薄手で、植物の標本のような手だったが、かづがまだ握っていると、野口の手はそろそろと、盗むように引き取られた。かづは全く手を握りつづけていることに無意識だったが、野口のこんなおずおずとした手の引取り方で、自分のはしたなさに気づかせられてしまった。彼の手は丁度むずかっている子供が、身をくねらせて、大人の抱擁を脱け出すような具合に逃げたのである。
かづは思わず野口の顔を見た。その険しい眉の下の目は鋭く澄んで、何事もなかったかのように平然としていた。
二人は池ノ端へ出て左廻りに池ぞいの道を歩いた。池を渡ってくる微風は大そう冷たく、水のおもては縮緬皺を立てていた。冬空の青と雲との色は、慄える水に融けあって、空の青い裂け目の色が遠くまで及んで、向こうの岸の汀に閃めいたりした。ボートも五六艘出ていた。
池の堤がこまかい柳落葉におおわれ、その落葉が、黄いろばかりか、萌黄の緑がかったのまであって、紙屑を載せた埃だらけの灌木よりも、落葉のほうがよほど鮮やかだった。
そのとき、中学生の一団がランニングをしているのに行き会った。彼らは揃って白いトレーニング・パンツを穿き、すでに一二周したあとと見えて、少年らしい細い眉をしかめて苦しげな息をつくさまは、興福寺の阿修羅像を思わせた。脇目もふらずに、二人のそばを、軽い運動靴の地をはたく音を残して駆け去った。その一人の首に巻いているピンクのタオルが、遠くへ去ってまで、枯れた並木道の下にくっきり見えた。
野口は半世紀にもなんなんとする、この少年たちとの年齢の距離を口に出して、かづに言わずにはいられぬらしく、
「えらいものだ。若いやつはえらいものだ。僕の友人にボオイ・スカウトの会長がいるが、ばかげた仕事だと思うが、そういう仕事に打ち込むやつの気持もわかるな」
と言った。
金に身体を塗った大道芸人だろう。どういう人生を送ってきたのか気になる。
野口とかづは敗荷に囲まれた弁天島を横切って、五条天神社の入口から上野の山へのぼり、枯れた木々の繊細な影絵のむこうに、硝子絵のような冬の青空を眺めながら、精養軒の古い玄関に達した。午餐の時間のそのグリルは閑散だった。
日本野球発祥の地といってもいいぐらい由緒ある野球場だ。彼等の残したもの、それを受け継ぐ形で、私の野球に打ち込んだ学生時代があると言ってもいい。