前回、前々回のメール文↓
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こんにちは!Gmailからだと文字化けして、うまく送れないので携帯メールから送ります。長文を失礼します。終わりまで読んでくれたら嬉しいです。
30代も終わりに近づいて始めた婚活で、幾人かの女性とお付き合いし、傷つけ傷ついて、女性への不信感だけが募っていきました。風俗店には、お金のためだけに来ている女性しかいないと気付いてから、一切のサービスを利用できずにいたのに、十数年振りに深海魚でセックスすると、女性コンプレックスからくる鬱憤が晴れるようでした。
それが、みづきさんを前にして立たなくなったのは、君が天使となって、良心を授けてくれたからだと思います。君を好きになり、思いやる心を取り戻せたため、相手が嫌だと分かって萎えるのは正常だと考えられるようになりました。君にインサート出来なくて本当に良かったです。ごめんなさい、そして、ありがとうございます。
母親が心を病んで、ヒステリーを起こしたり、父親が厳しいけれど愛情を感じられなかったり、家を出たいと過ごした18年の日々は大変だったでしょう。姉として矢面に立ったことも2、3ではないはずです。ロールモデルの参考となるべき両親を否定しながら成長せざるを得ない日々は、過酷であり、しかし、それゆえに、生い立ちの似るグレースケリーのような魅惑が君のすべてにあります。その気品は、何度も噴火を繰り返して美しくなった富士の冠雪を仰ぎ見ているようです。
『弥生三月』では、桜と太郎と弥生の3人が、三位一体となり、無垢で純粋な美しい世界を構成しています。桜の死によってその世界が崩れ、卒業式の後、桜の樹を境に別々の道を行く2人に、大人の事情が介入し、醜い現実に呑まれていきます。
生きていくことは汚れていくことであって、清く正しく生きるには、死ぬこと以外に無いという現実が、弥生の見守る中、高校生の息子と太郎で、ボールを力無く蹴り合う姿に投影されていると思えました。
あの場所は、小学生の頃、よく遊び、毎週土曜日に野球の練習をした落合南公園であります。中学校への通学で、毎日通った道でもあり、あの頃の自分と今を比べると、余計胸に迫ってくるものがありました。「桜」のように早く美しく死ねたら良かったです。
俗に遊ぶ境地になれず、世間一般の生き方とズレていくのは、純粋志向の強い個性にあると考えてきました。職業、学歴、家族構成、友人、趣味等の後天的な属性をのぞいていった先にある彼・彼女は一体どういう人なのだろうという志向が、自分自身にも強く働き、深海魚の遊びの場であっても、『見上げてごらん夜の星を』のようなハイムケール(帰郷)するメロディーが聴こえてくるようで、心から楽しむことができません。
最後に、太郎と弥生の母が、2人の無垢な赤ちゃんを眺めている光景が眩しく現れます。それは、気になる人に対して、思い至ろうとする、ひそかに辿り着きたい原風景でもあるんです。
私とあなたが価値観において一致しているのは、無垢で純粋なものへの郷愁、純粋志向にあるのではないでしょうか?
自営業の経営者のように立派ではないけれど、社会人になってから貯金した額が2千万円あります。お金だけではなく、君のためになるものなら、すべてをお渡ししても後悔はありません。もう一度会いたいです。どうかよろしくお願いします。