nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

神様の住む場所(熊野本宮大社より)


南紀勝浦の休暇村に行く道の途中で、風光明媚な入江に出会う。休暇村ホテルのフロアにこの風景の絵画が飾ってあった。バレーボールでもしているのかという生徒のかけ声がどこからともなく聞こえてくる。素晴らしい自然の中で、その恩恵を受けて生活している人達が、都会で住むようになるとどうなるのかなと思う。観光遊覧船に揺られて、リアス式海岸を見て回りたかったが、水曜日は残念ながら休日ということだった。

朝起きるて、カーテンを開けると、太陽の光の筋が私のところに一直線に届いている。神に一瞬出会えた気持ちになる。


熊野速玉神社に参拝。熊野三社巡りのうち、那智と速玉に参拝した。残るは、メインイベント、熊野本宮にここから自動車で一時間近くかけて行こうと思う。三島由紀夫ナビで見ていきたい。

しかし熊野川ぞいのドライブは、石ころだらけの難路に、材木を積んだトラックに何度となく行き会い、そのたびに濛々たる埃をかぶって、冷房のおかげで窓を締めているからよいけれども、しみじみと川の眺めを見下ろす余裕もない旅であった。
 むかし本宮は音無川のまん央にあり、壮麗を極めていたが、明治二十二年水害を蒙り、明治二十四年に今の川ぞいの地に移されたのである。
 川むこうにもいろいろの滝があるが、車のゆく道の側に、白見の滝と呼ばれる那智の裏滝を見たことは、先生もわざわざ車を停めて見ようとおっしゃったほどで、常子にとって忘れがたい喜びであった。
見たところは変った滝でもなく、トラックのあげる土埃にすっかり白く染まった草木が、滝のまわりだけつややかに濡れて光っているのが、新鮮な眺めであったが、これがあの巨大な那智の裏側から落ちてくる清らかな水だと思うと、見上げる空から迸り落ちる白い一筋が、尊いものに感じられた。思えば常子も先生のおかげで、きのうの朝は海上から遥かに望み、そのあとでは滝壺にいてそのしぶきを浴び、今日はそのひそかな裏滝を窺うという具合に、心ゆくまで那智の滝に親しむことができたのである。(三島由紀夫著『三熊野詣』)



やがて川の分岐点からさらに熊野川に沿うて西へ進み、山々谷々をわたって湯峰温泉をすぎ、支流の音無川がのびやかな流域を示しはじめるところに、川ぞいの閑雅な社が杜に囲まれて見える。
車を下りた常子は、夏の日に包まれたあたりの野山の美しさに目をみはった。人影も少く、清浄の気に杉の香がまじって、ここが阿弥陀浄土だという言い伝えは、今日のような雑駁な世の中には、却ってまことらしく思われるのもふしぎである。老杉の木立にこもる蝉の声さえ、少しもうるさくなくて、いちめんに貼りつめた赤銅の箔が鳴りひびいているように、しんしんときこえる。
端然とした白木の大鳥居の下をくぐって、下枝まで葉叢のひろがった杉木立のあいだの、玉砂利の参道をゆっくり歩く。日ざかりであるのに、事新しく暑熱を感じることもない。石段の下から見上げれば、空は悉く杉の緑に包まれ、ところどころに幹の高みを染める木洩れ日と、焦茶いろの枯葉を点綴するのみである。
 石段の半ばにその一節を引いた立札があったので、常子は謡曲の「巻絹」を思い出した。




和泉式部の祈願塔。
 和泉式部が熊野参詣を遂げようとはるばる京から熊野にやって来た時,ちょうど月の障りとなりました。式部は,血の穢れゆえ熊野の神への奉幣がかなわないと思い込み,その不運を嘆きつつ,「はれやらぬ身のうきくものたなびきて月のさはりとなるぞかなしき」と歌を詠んで寝た所,その夜の夢に熊野権現が現れ,「もろともにちりにまじわる神なれば月のさはりもなにかくるしき」(「もとよりもちりにまじわる神なれば月のさはりもなにかくるしき」)と式部を慰めたといわれています。

 熊野の神は夢の中で託宣する神として有名ですが,この歌は『風雅和歌集』(南北朝時代成立)に載せられています。この伝承は,熊野権現が女人の不浄を嫌わない事例として時宗の聖たちによって世の中に広められたと思われます(五来重説)。

 このエピソードにちなんで江戸時代の俳人服部嵐雪は「蚋(ぶと)のさすその跡ながらなつかしき」という句を残しています。 

元々音無川の真ん中にあったと本宮神社跡には、日本一の大鳥居ができている。周りは田んぼになっていて、鹿注意という立て看板があった。農作物を荒らすらしい。帰りにこの道を通っていると、休暇村ホテルにいた綺麗な女性が夫らしき男と一緒に歩いてくる。男性は暑い中、しんどそうに無理してついてきているといった風で、しかめっ面をしている。美人の女性と付き合うというのは、案外と大変なことだ。

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