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ジーナ6

                  十

 六月も終わりに近づいた頃、従業員の専用通路を、海鮮寿司部のパートのおばさんが、ジーナの片腕を掴んで、前後に振りながら歩いてきた。寝る子をゆすり起こすような軽さで、何度もジーナと声を掛けている。私が通り過ぎ様、おはようと挨拶しても、ジーナは呆然自失として、私のことに気付いていない。
 バックヤードにきてからも、時々、何かを念じるように下を向く。
「どうかしたの?」
「お兄さんの奥さんが、人工透析を受けないっていうのよ。お金は送るからって言ったのに……」
「病院に通っていたの?」
「入院していた。でも、抜け出して、家に帰ったらしいの」
「放っておくと尿毒症になるから大変だよ。すぐに戻るように言わないとね」
「うん、でも……」
 と声を弱めて下を向いた。
「お金を送ろうよ。早く送るようにしよう」
「もう送った……」
 としばらく黙っていた。遠く離れた兄嫁との思い出が頭によぎるのだろうか。目に涙を浮かべて、首を左右に振った。私が驚いた顔をすると、今度は首を軽く振って、真面目な顔をして頷いた。それから、頑張るしかないと自分に言い聞かせるように言った。
 
 午後八時三十分。ジーナがパブで着替えをして、一息ついた頃だ。私は心配して電話をした。
「どうだったの?」
「お姉さん?」
「そう」
「死んじゃった。やっぱり、戻らなかったみたいね」
 と落ち着いて話している。
「何で?」
「病院に行くとお金が掛かるから、他の人が食べられなくなると思ったんじゃないの。私は、あなたがいないと、子供はどうなるのって、言ったのに……近くの草原で倒れていたって」
 ミンダナオ島の山野を逃げ惑う兄嫁の姿が浮かんだ。密生している鉄砲草をかき分けて開かれた草原に出ると、暑い日差しを感じた。二本のナラの樹の下に身を落ちつけた。キリギリスがギィーチョンギーチョンと鳴いている。主人、親戚、幼い頃の友達、お世話になった人達が頭に浮かんでは消えていく。先程、別れた二人の子供のあどけない顔が脳裏をよぎる。悔しさが込み上げてきた。樹の根元に頭を押し付けて、祈るように声を上げて泣いた。十字を切って、空を見た。神様、私の行いは罪でしょうか、贖罪でしょうか? 愛する家族が幸せになって欲しいからこそ、私は死を選んだのです。どうか私を咎めないでお許しください。
ジーナは、無理しないでね」
 思い描いた兄嫁の姿は、ジーナから連想したものにすぎなかった。週に一度教会に通うプロテスタントの彼女は、隣人愛を兄嫁の死に見ているのではないか。
「頑張るしかないからね。この前帰った時は元気だったのに……」
「……」
「あの人のためにも、強く生きるわ」
 
十一
 
その年の七月二十一日(水)は土用の丑の日であった。店頭で鰻の炭火焼実演販売をした。U字溝の上にあるステンレス網に、一度蒲焼し冷凍された鰻をのせる。炭を継ぎ足し、時々団扇で扇ぐ。鰻の表面にタレを塗る。ひっくり返して、表面も炭火に当てる際、タレが網の下に落ちて、蒸発する音が響き、甘い醤油の匂いが鼻先を掠める。U字溝を覗き込むと、黒い炭は頑固に火を纏っていた。まるで太陽の熱で燃えているかのように、いつまでも消えない感じがした。
 今日の夜に、ジーナの店で浴衣パーティーがあるらしい。店頭のやぐらを片付けてから店を出るのに、午後八時は過ぎるであろう。真夏の日光を浴びて、一日中立っているだけでも、くたびれるのに、その後、パブに行くのは気が引けると、一応は断った。灰になりかけた炭の上に、黒い炭をのせて団扇で扇ぐ度に、熱気が首や頬にぶつかる。以前、夏は暑くて嫌だねと彼女に聞くと、フィリピンはいつも暑いよ、夜、クーラーのある部屋で私が寝ていたら、みんな中にぞろぞろと入ってくるんだからと楽しそうに話していた。それと比べて、昨日の電話口で話すジーナの声は、線香花火を見つめているような寂しさがあった。わかったという気落ちした声が耳について離れない。私は本部から手伝いにきている男に断って席をはずした。
 電話に出たジーナは起きたばかりで、まだ眠気と闘っていた。私が浴衣パーティーに行くと告げると、良かった、待っているわと喜んでいた。一人も呼べないと恥ずかしくてお店にいられないらしい。

 その夜、大国魂神社の駐車場に着いたのは、午後十時を回っていた。日中の暑さが、肌にぬくもりとなって残っていた。時々そよぐ風が、ケヤキの巨木の葉に、緑の羽音を与える。涼しく気持ち良い夏の夜だと思った。自販機と事務所の明かりだけを頼りにした広い駐車場内は、暗く静まりかえっている。ケヤキの巨木の根元に、人が座るのに適した瘤がある。帰りにここに座って、缶コーヒーを飲んだことがあった。あの時、とっても幸せな気持ちになれたのはどうしてだろう。
 府中国際通りの狭い駐車場の真ん中で、手持ち花火をしている若い金髪の男女がいた。けたたましい音と共に、筒の先から光線が束になって飛び出した。空中で花びらのように四散した火がアスファルトの地面に着くと、ホタルの光のような未練を残して消えた。花火を手に持って、はしゃぎながら男は女に同調を求めるように話しかけている。女も心から楽しそうに頷いている。時々、火花の加減で二人の笑顔が、鮮やかに映される。黒服を着た客引きの男達も、急に騒がしくなった駐車場を振り返り笑っている。
駐車場を囲う金網のフェンスのすぐ外に、えのころ草が生えている。電灯の明かりが、細く伸びきった草の先端を、スポットライトのように照らしている。ブラシのように毛の長い穂におびきよせられる生き物が登場するのを、今か今かと待っているようだ。この小穂を用いて猫をじゃらすことが出来ると、幼い頃に近所のおばさんに教わった。
 黒服の男達が寄ってくるのを避けるように道を急いだ。店の外でフィリピーナが、四十近い男と小声で話している。飴色のキャミソールワンピースを着た女が哀しい顔をして頷いている。男は真向かいで女の顔をじっと見つめていた。男はそばを通る私の顔をチラと見た。頬の微かな緩みが、真剣な目を卑屈で腹黒いものにしていた。忌わしいものに思えた。片言の日本語が耳に触れる。
ところで、私がジーナと話している姿を、人は同じように見るであろうか?

 青藍に淡黄色の花模様が入った浴衣をジーナは着ていた。私を見るや、目を大きくして口を薄く開けた。ショートケーキにフォークを入れて、口に持っていく時のように、白い歯がチラと覗いた。近くにマリアが寄ってきて、久しぶり、嬉しいじゃんと背伸びをして、頬にキスしようとしてきた。私は子供のパンチをよけるボクサーのように軽く首を横に倒した。ジーナは真面目に黙っている。気になって合図をしたら、近づいてきた。そして、手を伸ばし、私の髪を押さえるように撫でた。うん、こっちの方が格好いいと呟いた。

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