仕事中の一瞬の不注意で転倒し、左腕の骨にヒビが入った。気がつけば、痛みと不自由な生活が始まってから2週間が過ぎた。周りの同僚が仕事に励んでいるのを見るたびに、どうしようもない孤独感と惨めさがこみ上げてくる。何もできないもどかしさと向き合う日々は、自分の無力さを実感させられる。
この療養期間、ただぼんやり過ごすわけにはいかないと決め、かねてから読みたかった三島由紀夫の文学や、観たかった映画に没頭しようとした。だが、現実はそんなに甘くない。読み始めたはずの安部公房の評論も途中で挫折し、せっかくだからと手に取った百科事典『ポプラディア』も1冊も読み終えられない。無駄に過ごしているような焦燥感に駆られながらも、「これが今の自分の限界か」と苦笑してしまった。
三島由紀夫の戯曲も手に取ったが、ストーリーに没頭するどころか、どうしても「もっと有意義な時間の使い方があるんじゃないか?」と考えてしまう。それでも、「骨折の療養にふさわしい文学を」と自分を納得させ、トーマス・マンの『魔の山』を読み始めたが、難解で長い文章に圧倒され、100ページ読んだところで断念してしまった。
安部公房推薦の映画を観て、新たな視点を得る
映画もいくつか観ることにした。安部公房が推薦していた『忘れられた人々』や『悪魔の発明』、『手錠のままの脱獄』、『ソフィーの選択』などを視聴し、その重厚なメッセージに胸を打たれた。
特に『忘れられた人々』は、メキシコの貧民街で暮らす人々を描いたもので、リアルで生々しい描写が頭から離れない。見終わった後、まるで自分もその場にいたかのような錯覚に陥り、深く考えさせられた。映画については、また書ける時に詳細な感想を書きたいと思う。
使えない利き腕への苦悩と、新たな気づき
利き腕が使えない生活は、想像以上に不便だ。食事をするにも、物を書くにも、歯を磨くにも、すべてが思い通りにいかない。無理してブラインドタッチをしていたら、痛みが走り、結局何もかもが手につかなくなる。
ふと、こんな状態で仕事に復帰しても「果たして自分は稼げるのか?」と不安が募る。いざという時に頼れる手段が何もない現実に打ちひしがれ、「このままじゃいけない、もっと自分のスキルを磨かなければ」と感じた。
想いを伝えるメッセージと、詩の挑戦
療養中のある日、婚活で知り合った女性に連絡を入れた。「また会いたい」という一言が、ただの社交辞令以上の意味を持つように感じられた。怪我をして生命の危機感を覚えると、本能的に「子孫を残したい」という思いが芽生え、ぼんやりとした未来への不安が募っていく。幻想の中で妖艶に舞う女性の姿がちらつくが、それは菩提樹の下で煩悩を乗り越えた釈尊とは対照的だ。
最後に、気持ちを整理するために詩を書いてみた。苦しい日々の中で自分を見つめ直す一助になればと思っている。
骨折
利き腕は無力となり
前へ倒れるその瞬間に
この肉体を支えようとする意志が砕け
骨に刻まれた亀裂は
見えない痛みを、私の内側へと誘う
食卓に並ぶ食器ひとつひとつが重くなり
文字は私から遠ざかり
鏡に映る歯を磨く手のぎこちなさが
もはや私のものでないことを教える
この腕が再び力を取り戻さなければ
私の価値もまた失われるのだろうか
思い描いた未来の輪郭が、曖昧に霞む中で
私は生きることの重さと脆さを
ただひとり噛みしめる
その夜、無意識に手を伸ばして
婚活で知り合った彼女に「会いたい」とメールを送った
痛みを抱えながら眠る私の胸に
彼女の幻影がそっと舞い降りる
命の儚さが、子孫を残したいという衝動へと変わる
釈尊の菩提樹の下で、彼は煩悩を昇華させたと聞く
だが私は、今ここで、痛みによって己を超えるのではなく
むしろそのまま身を委ね
この不完全な体を、ただ天へ昇らせてみたい