nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

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パラサイト 韓国でなければオスカーは難しかったなぁ?

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万引き家族』に似ているなぁと思った。黄色人種が欧米の映画祭でグランプリをとるのは、極貧の卑しいネズミのような生活をする姿が必要なのだろう。都市の洒脱な生活を描いたソフィスティケートな作品を評価する訳がない。しかし、ブルースリーがハリウッド映画で、鍛えられた肉体をスクリーンに披露することにどれだけ苦労をしたか考えてみれば、今回、作品賞を獲得したことは、凄いの一言である。
2月11日建国記念日であったから、満席の100名近くの中で観る映画もいいものだ。オリンピック、ノーベル賞とアジアの主要な功績は、日本が初めてという名誉は次第に過去のものになるのだろうか? 韓国の芸能は昔から進んでいるにしても、AKBとジャニタレが紅白でウロウロしているのを見ると不安になる。
壁が黄と黒のシミで汚れていて、コオロギが這いまわっている家が映されると、悪臭が鼻先をよぎるようだ。害虫消毒の燻煙車が迫ってくると、窓を閉めるか長男(ギウ)が家族に問いかける。父親が、コオロギがいなくなるから開けておけと命令する。
パク社長の邸宅で家庭教師をすることになったギウから、次々とあらゆる手段を講じて家族(父、母、兄、姉)をパク一家の仕事に従事させることに成功する。パク社長一家がキャンプに出ている間、居間で酒とつまみを出して、貧乏一家が大騒ぎしていると、天気が崩れて大雨が降ってきた。インターフォンが鳴り、予定外のことに貧乏一家は焦りだす。以前の家政婦(ムングァン)が、忘れ物をしたという話であった。なかなか出てこないので部屋に入ってみると、地下につながっている隠し扉があり、その奥には、借金取りに追われる夫がかくまわれているのであった。
お金を送るから面倒をみて欲しいと懇願するムングァンに首を振る極貧家族の母(現在の家政婦)であったが、階段で隠れて聞いていた父、兄、姉が足を滑らせて倒れ込んでしまう。その様をムングァンがスマホで撮影し、パク社長に送るぞと脅迫する。先ほど、一家がくつろいでいた居間のソファーにくつろぐムングァンが大笑いをして、金正恩の核ボタンのようなものだねと、北朝鮮のアナウンサーの真似をして、家族を罵る姿は実に面白い。
あらすじはwikipediaで調べればいいから、これがいいと考えたところだけ述べさせていただく。
高校2年生で受験勉強に励むパクダヘと家庭教師ギウの恋は、貧しさゆえにパラサイトの道を駆けずり回るネズミのような家族の物語に花を添えている。カーテンに隠れて2人はキスをしていた。外では、パク社長の息子ダソンの誕生日祝いを庭の芝生で多くの知り合いを招いて行っている。それを2階から見下ろすギウにパクダヘは、違う女のことを考えていたんでしょと嫉妬をにじませる。ギウは、寂しそうに、「優雅だな、俺も似合うかな」と問いかける場面はせつない。パクダヘを演じるチョンジソの表情、特に目で気持ちを表すところは出色である。
姉を演じるパクソダムの純粋な韓国人のような狐のような目も魅力的だ。そして、話し方に格調と気品があって、これも、このドロドロした暗い内容に、彩りを与えている。
貧富の差のコントラストが、この映画の見どころで、貧しいものが必死に這い上がろうと、醜いことに手を染めても生きようとする人間の本能を、殺人のグロテスクな場面を隠さず映すことで伝えている。この描写によって12歳以下は入場禁止ということであろう。日本の映画では、倫理の問題もあるのか、こういう表現に触れる機会がない。万引き家族のパクリのような気もしないではないが、やはり韓国の芸能文化の結晶でなければ、オスカーを得ることはできなかったのであろう。

雛祭りを待たず、またストーカーメールを送ってしまった?

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↑前回の記事

「誠に申し訳ございません。もう絶対メールしないと誓ったはずですが、ここ数ヶ月、君のことが脳裏から離れません。自分のことのようにYさんが浮かんできます。お会いした日が遠ざかるほど全体像が見えてくるものですね。何故、君だけが掛けがえのない存在と考えるのか、正直にすべて書きました。これで必ず最後に致します。
私は弘法大師空海に憧れた父親の下で育ちました。空海は自費で現在の中国に渡り、密教哲学を日本に持ち帰った初めての人です。天皇陛下密教を教え、その後ろ盾でもって、五重の塔で有名な東寺を建立しました。
また修行の根本道場を高野山に定め、そこを女人禁制にし、日本で初めて庶民のための学校や溜め池をつくり、多くの書物を遺しました。性欲に代表される煩悩は、すべて社会的価値の高い活動に昇華する理想郷を求めたのでしょう。
父親は、空海ほどのスーパーマンはいないから、自身は市井の良い英語教師として、二人の子を持つ父親として生きていけばいいと納得したのでしょう。キリスト教徒がキリストほど人を愛することはできないから、自身は神の愛を伝える使途であればいいと、良心の呵責に悩まされず気楽に生きる姿と似ています。
父の趣向に触れるたび、子供心に、スーパーマンになれと望まれているような誤解をしていました。
大学生になると、彼女ができる友人も増えて、性欲は強くなるし、自分の生き方に悩むようになりました。三島由紀夫に出会ったのは、その頃です。
空海の唱えるのは、聖人の説で、三島由紀夫は小説家ですから、小人の説なんです。彼の著す物語には、些細なことで道に迷う人達が、俗世間に染まりながら、一縷の意思を持って生活する中で、刹那きらめく真・善・美が描かれています。その姿に多く励まされてきました。
私が、Yさんを素敵だと思うのは、純粋な女性原理の世界を守り、創り上げてきた意思にあります。熊のプーさん展の風船の糸を後ろ向きに持っている姿、実家の犬猫を家族のように想う愛情、ハプスブルク展のような美しいものに囲まれる生活への願い、言葉に出来ない世界を音楽で伝えようとする強い気持ち、動物達を助け獣医になろうとする優しさ、そしてなにより、弱ったお年寄りを介護する日々のお仕事。
Yさんは綺麗で可愛くて美しく、表情や挙措や振る舞いも、そして話すことのすべてが女性の魅力に溢れていました。私は君のような異性としての魅力はないけれど、結婚していない理由は同じであると考えています。心の底にある男女の原理に対する純粋さゆえに、自分の良いとして思い描く世界に異性を受け入れる余地が少ないということです。
 君の魅力から周囲は、婚活していることに首をかしげるはずです。モテないはずがありえません。それでも、真顔で首を振る君は、ただ男性をあるところで拒んでいるだけだと思います。
ツヴァイの出会い準備講座の動画では、男性は永遠の6歳で、女性は永遠の18歳だと講師が話しています。精神の世界史にこれを当てはめると、人間の寿命で6歳に当たるのがギリシャ哲学のエロースであり、18歳にあたるのが、キリスト教アガペーであります。私達が雛人形のように純粋な男女原理の一対だとしたら、互いの追求してきた価値観は、この2つの思想に近いと考えられます。
以下、参考書を抜粋しました。
「人はだれしも、美しいもの、優れたものを好み、手に入れたいと思う。価値あるものを求め、そのことによって自分自身の向上をはかる愛を、ギリシャ人はエロースとよんだ。プラトンは、このエロースに哲学的解釈を与え、人間を真・善・美の三面を有する理想へ限りなく高めていくものとした。つまり、個別的なものへのとらわれを離れ、普遍的真理に向かって自己を拡大していく衝動としてエロースを意味づけたのである。
たとえば、学校で教師が生徒に教育愛を注ぐのは、生徒が普遍的真理を求めていけるものとして生徒の価値を認めているからであり、生徒が真理を求めて向上していくことに教師として満足できるからである。
このようなエロース的愛は、自分自身がよいものを求めるだけでなく、他者をよいものにしていくためにも、人間関係のなかになくてはならないものである。
しかし、エロース的愛は、価値があると思われるものに注ぐ愛であるから、価値が認めれられなくなったものには愛は自然に停止してしまう。愛は対象を失い、人間は孤独に陥る。
これに対して、対象の価値にかかわりなく、また自分を満足させるかどうかを問わない愛を、キリスト教ではアガペーとよんでいる。
たとえば教師は、どんなにできない、よいところの見当たらない生徒に対しても、愛情を注ぐことができなければならない。心身に重い障害をもつ子供をいとおしく思う母親の愛、再起不能の病人でありながらも手厚く看護しようとする愛、差別され虐げられた人々のために自己をなげうって奉仕する愛などがそれであり、イエスの罪人に向けられた愛はその究極の姿を示している。
このような愛は、そこに存在するということだけで惜しみなく与えることのできる愛であるから無償の愛ということができる。また、愛の対象の価値に左右されない愛であるから、停止することのありえない愛である。人間はこのような愛によって、孤独を脱することができるのである。」
こうして考えると、ご指摘のように、価値観(人間に対する考え方)が根生いのところで真逆であります。端的にエロースは地上から天上へ向かう自己愛であり、アガペーは神が人間に向かう道とするなら、お互いの究極とされる人間のあり方については一致してくるのではないでしょうか?
 源氏の氏神である鶴岡八幡宮で巫女をされていたお話の中で、源実朝について問いかけていたことを覚えていますか?
先日、鎌倉駅で降りて、参拝してきました。コロナウィルスの影響からか観光客が少なく、多く店内は人影がまばらでした。大銀杏の根株を横目に、階段をのぼりきると、お守りを並べた本宮前の授与所に、緋袴と白衣を身にまとった巫女がいました。
ふり返ると、遠くの青い海に向かって常緑樹の豊かな参道が一直線に伸びていて、両側の白い建物が道を守るように続いています。3つの鳥居が赤い関門のように並んでいました。
大銀杏前の階段、13段目で立ち止まりました。小学校5年生の時に、担任の先生が、日に照らされた変哲もない階段を指差して、ここで源実朝が暗殺されたと説明していたのを思い出します。
 生まれつき病弱な源実朝は、源氏に生まれ、兄、父、伯父を暗殺される権力闘争の渦中にいて、若年の死をいつも予感しながら歌を支えとして生涯を送りました。子供を産むことの許されない境遇の中で、源氏の正統が自分で終わるから、せめて高い官位につき、家名をあげることを望むようになります。築き上げた和歌を広めるために命を捧げたのだと思うのです。周囲の反対を押し切って、右大臣の拝賀式に向かうたため、長年住みなれた我が家を出る前に、御髪上げをした者に遺髪を渡し、辞世の句を詠みました。
「出で出でて 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」
 人生で、Yさんが誰よりも素敵な人でした。」
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マネジメントはロマンとソロバンの両方が大切なのか?

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 食品スーパーで働いているが、直属の上司が変わってしまったため、心身の疲れからか、以前より婚活に乗り気では無くなった。1人の坊さん好きの女性とのやり取りも、こちらが乗り気ではないため、尻すぼみになりつつある。
 なぜ、それほど新しい上司に疲れているか? 当たり前のことであるが、効率性を重視する上司のもとだからである。
人件費がいくら嵩張ろうと、いくらいいところが見当たらない部下であろうと、その分売ることで解決するのだというロマンが、以前の上司にはあった。この視点は、プラス思考であり、部下のいいところを、売上に利用していこうとする発想である。しかし、無駄な人の使い方や、無意味な商品を多く量産したりと数値が改善することはなかった。今回の上司は、結果よりもプロセスを重視する人で、いかに売上が良かろうと、問題点を指摘して改善を迫るということを繰り返す。
 私はサブチーフとして数値を気にする立場であるから理解はできる。しかし、数値に無関心なパートできている主婦の方達は、チーフがいつも暗くて、むっつりと何を考えているか理解できないと思う。出来ないパートナーさんから辞めていくことが予想される。鮮魚部門はスーパーの中でも少人数であるから、効率を最重視した無理無駄ムラを省いたマネジメントが功を奏するのである。しかし、それ以上の広範囲に人の統率をはかり、士気をあげて、結果を残していくには、ロマンが必要になる。
 商売(マネジメント)に大切なのは、ロマンとソロバンであるのだろう。

三島由紀夫『憂楽帳』核問題について言い当てている!


「だれだって腕っ節が強くなれば試してみたい。生兵法は大怪我のもとというけれど、私もボクシングをやって1ヶ月もたったら、けんかをしてみたくて困った。日本は原爆被災国として、なおかつ腕っ節の全然強くない立場から、町内の暴れん坊たちの腕くらべに、ひたすら抗議を申し込んでいられるが、日本だって原水爆をどんどん生産していたら、実験停止なんかオクビにも出さぬだろう。
 一口にいって、ソ連のやり方は小ずるい。美辞麗句を用いて、だれがみても非のうちどころのない理想論をかかげながら、その理想論が実現困難なあいだ時をかせぎ、平気で実験をつづけることができる。小国の生命の安全などをへとも思っていないところは、大国の貫禄十分である。 アメリカも日本の学者が放射能雨の危険を警告していたあいだは一笑に付して、私も滞米中、アメリカ人が雨をこわがらないで平気でぬれて歩くのにおどろいたが、乳牛の被害から生活の一端がおびやかされてくると、安閑としていられなくなった。
 核実験停止問題については、私はかなり楽観的意見をもっている。数年前に比べて、東西両大国とも、科学者のデータから、危険そのものの認識をかなり深めているはずだからである。あとに残るのは見栄と面子の問題で、これは永遠の人間性にまつわる問題だから、人間同士がよく話し合えばいいのである。」

核実験停止問題について、楽観的というのは、どうかとも思うが、この作品のテーマが、憂楽帳だから、憂うべき問題を提示してから、結論は楽観的に考えるところに面白さがある。
集団美についての見解もまさに憂楽帳だ。

「17日の国民体育デーの呼物は、2万人余による体操祭であった。実際マス・ゲームというのは壮観であって、豪華大レビューのフィナーレといえども、これには到底敵すべくもない。
 一糸乱れぬ統制の下に、人間の集団が、秩序ある、しかもいきいきとした動きを展開することは、たしか圧倒的な美である。これは疑いようのない美で、これを美しいと思わないのは、おほどヘンクツな人間である。
 ところで、ファシズム政権や、共産政権は、必ずこういう体育上の集団美を大いに政治的に利用する。かつてのナチスの体操映画や、ソ連中共のこの種の映画は、実に美しい。それを美しいと思わないものはメクラであって、ファッショや共産主義といえばなんでもかでも醜く見えてしまう人は不幸である。
 人間の集団的秩序と活力にあふれた規律的な動きは美しい。軍隊のパレードも、観兵式も美しい。それは問題の余地がない。
 ――しかしである。 
 この種の美しさは、なにも軍隊や独裁政治や恐怖政治が一枚加わらなくたって立派に出せるので、この種の美が、彼らの専売物であるわけではないのである。全く非政治的な場所においても、スポーツは本来このような秩序と集団の美を示しうるのである。
 こんどの体操祭の最大の意義は、それをはっきりと(この政治的時代のただ中において)証明したことだと思われる。」

三島由紀夫『憂楽帳』政敵について


政治は私のもっとも嫌悪する世界であるが、ひとつだけいいところがあるのは「政敵」というものがあるからだ。これこそは議会制民主主義の利点であって、政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。政治をいささかでも清らかにするのは政敵の力である。
学者とか官吏とか芸術家とか、本来非政治的人間が政治的行動をするときの、なんともいえない醜悪さ、いやらしさ、臭さは、正当な政敵の存在しえないところで政争めいたことをやるからだろう。
政敵に対する公然たる非難には、さわやかなものがあるが、これらの人にはそれがない。
「人間、生きている以上、敵があるのは当然なことで、その敵が、はっきりした人間の形をもち、人間の顔をもっている政治家という人種は幸福である。」
「政敵がいれば、その死んだときの悼辞にも、さわやかな哀惜がこもるはずで、社会党鈴木委員長の鳩山元首相の死に関する感想は、読んでも気持のいい読物であった。政治がスポーツ的なフェアな光彩を発揮するのは、こういう瞬間であろう。」

上場会社に転職してから、140店舗あるうちの売上が上位10店舗に入るお店のサブチーフという立場で仕事を5年している。抜擢されてきたチーフを多くみていると、社内派閥の後押しがなければいけないというのがわかる。社内政治上で、補填という形で、売上利益がとれていない時にも、フォローしてくれるから、大型店の責任者が務まる仕組みなのだ。そこには、政敵がはっきりしていない中における派閥争いだから、何かにつけて陰湿である。
 私も幼い頃から最も嫌悪してきたのは、必要悪としての政治だったと改めて気付かされた。

三島由紀夫『世界の静かな中心であれ』


昭和34年1月1日の読売新聞に掲載されたエッセイは、14年続いた平和な世の中における感想を富士山を例に書いている。
「富士山も、空から火口を直下に眺めれば、そんなに秀麗と云うわけには行かない。しかし現実というものは、いろんな面を持っている。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり一部であるのだ。」
そして、今年こそは、政治も経済も、文化も、本当のバランス、スレッカラシの大人のバランスに達してほしいと思うと述べる。楽天主義悲観主義、理想と実行、夢と一歩一歩の努力、こういう対蹠的なものを、両足にどっしりと踏まえたバランス、それかこそが、現実的な文化である。
日本もついに野球選手と映画スターと流行歌手の国になってしまったか、などというのもヒステリックな詠嘆に過ぎず、こういう不必要なものが生活の関心の大部分を占めるだけ、余裕のできたことを喜ぶべきだ。ただ不必要なものに大騒ぎをして、もっと必要なもの、安定した職や住宅や良い道路などのために大騒ぎをしないのが、いかにもアンバランスで、今年こそは必要と不必要の双方を踏まえたバランスが欲しい。
古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものにしていた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持っていることを、感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。
日本の象徴である富士山に問いかけるような美しさが、このエッセイにある。三島由紀夫は、国について語る時に、爽やかな美をともなう。
私一個のうちにだけでも最大の美しい秩序を築きたいと氏の生真面目さが良く表れている。

一番多い婚活女子のタイプはここにあり!

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前回の記事↑
お坊さんと結婚したいと公言する彼女とLINEでやりとりをしている。相手が親しみを持ってくれるのは嬉しいけど、彼女は、自己卑下が強いのか、自身のことを腐女子、デブスだと揶揄している。これだけ下手に出てくる女性は初めてなので、警戒してしまう。実際に会うと、相手が急に上手で出てくると、かえって嫌なものだ。
好きになる女性とは疎遠になり、会うのを躊躇する女性が近づいてきて、どう対応していいのかに追われるうちに疲れが溜まってくる。私はそもそも結婚したいのだろうか? 随分と失礼な心持ちで、私は相手と会っているのではないのだろうか?
好きだという気持ちには、そのままの姿を保ちたいということ贅沢な願いが隠れているのではないだろうか? 相手が好きになって、笑顔でくると急に冷めてしまうというのはあるものだ。
下記の記事は、婚活で会った女性の気持ちを代弁していて、納得がいった。これから婚活するものは、ぜひ読むといいと思う。一番多い婚活女子のタイプを知りたければ、ひかりさんの書いた下記の記事を読んで欲しい。

子供おばさんが「結婚はしなくてはいけないもの」だと焦る理由 [ひかりの恋愛コラム] All About
https://allabout.co.jp/gm/gc/482003/

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阪神タイガース・プロ野球・スポーツ